随筆の最近のブログ記事

 七月十四日正午過ぎ、昨年「八尾風の盆」にも同行した俳人S氏と共に博多に着く。

 毎年七月一日から始まるこの行事は、十五日間にわたる博多の熱き男たちの戦いだ。十四日目の「流れ舁き」は、半日後に迫った「追い山笠」に向けて、最後の調整を行う為である。駅ビル食堂街でまずは腹ごしらえだ。

 夕刻四時、それぞれの「流れ」の集合場所に集まった男たちの「締め込み」姿は凛々しさ溢れ、日焼けした尻の擦り傷に貼った絆創膏は、博多男の勲章といったところだろうか。「オイッサ、オイッサ」の掛け声を挙げて走る「流れ」に向かって、沿道に用意してあった水がかけられ、水しぶきが逆光に映え絶好のシャッターチャンスだ。大きな大人に混じって走る幼児の捻じり鉢巻きの法被姿や、自慢の孫を肩車にして歩く年寄りの姿などを次々と撮りまくる。カメラマンは息をつく暇も無く、流れる汗が目に染みる。

 明けて十五日、午前四時五十九分の一番山笠の櫛田神社入りで、祭りは最高潮に達する。七流れのある「舁き山笠」は五分置きにスタート、払暁の博多の街を五キロにわたって走る。

 街路樹の支柱に登ってカメラを構えて待つ。来たっ。望遠レンズを向けてファインダーに被写体を求めるカメラマンは、獲物を狙うハンター、いや敵兵を迎え撃つスナイパーそっくりだ。シャッターを続けて切る。

 次第に夜も白み朝日も差し始める。いかに九州男児といえど、肩に食い込む山笠の五トンの重さに耐えて、五キロメートルの道のりを走り抜くのは難行だ。コース半ばでスピードダウンする「流れ」もある。

 六時過ぎゴールに到着した山笠は、それぞれの地域に帰り直ちに解体され、通りの一画に用意された打ち上げ慰労会で酒宴が始まる。

 昨年の「八尾風の盆」の哀調を帯びた胡弓の音もよかったが、「流れ」の名誉をかけて競う「追い山笠」こそ、博多の街にふさわしい男の意地を見せた迫力のある祭りだった。

 酒好きのS氏は、昨夜千鳥足で上機嫌の御前様でホテルに帰ると、「○○(私)さん、わしゃあ、博多が気に入った。飲みよったら隣の男と気が合うてのう、彼に誘われてハシゴをして飲ませてもろうた上、ホテルまでタクシーで送ってもろたんでえ、わしゃあ博多が気に入った。」と曰い、服を脱ぎ捨てベッドの上へ倒れこんでバタンキュー。「糞ったれ。風邪をひいても知らんでえ。」とは思ったが体調を崩されてはお荷物になるので、蒲団を柏餅のようにかけてやる。でも、朝四時には目を覚ましてくれ、別々に「追い山笠」を取材して、約束の待ち合わせ時刻に無事合流した。そして、次の目的地の五島列島へ向かった。

平成10年11月

我が家の一番下の孫は、四才になっても夜寝る時には、まだおムツをしなければなりませんでした。時おり孫に向かって、

「Aちゃんは、いつになったらおムツをしないで寝んねするんかねえ。」

と言うと、彼女からは次のような答えが決まって返ってくるのでした。

「だって、ミホちゃんだてタカくんだって、まだおムツしてるもん。」

ところが、そのミホちゃんもタカくんもやがておムツをしないようになりました。どうやら、保育園の同じクラスの中では彼女だけになってきたようでした。それでもまだ、

「ミホちゃんもタカくんも、Aちゃんより早く生まれているでしょ。だからAちゃんはまだしてもいいの。」

と、さも、当然といった口ぶりです。
そうこうしているうちに、さすがの彼女も少し恥ずかしくなったのか、ある日とつぜん、

「Aちゃん、もう今晩からおムツしない。」

と言い出しました。とは言っても、夜トイレに行きたくなってひとりで起きることなど到底できません。そうなると、毎晩一緒に寝ているバアちゃんは寝たら最後ま朝まで目が覚めない人ですから、夜中に定刻に起こす役目は当然私に廻ってきます。

最初の夜は、孫も失敗しないか不安そうでしたが、なんとか無事に朝が迎えられ、

「Aちゃんもおムツがはずせたねえ。えらい。えらい。」

とほめてやると、

「Aちゃんはおムツしないから、もう梅組さんになれるよね。」

と嬉しそうに言いました。それから後一度失敗はありましたが、今日まで年寄り二人の共同作業で無事にすんでいます。でもひとりで目を覚まして、トイレに行ってくれるようになるまでは、ずいぶん月日がかかることでしょう。

ところで、このおムツバばなれの早さについて、三人の孫を比べてみると、上から下になるほど遅れているようです。そして、そのわりあいは使い捨ての紙おムツの普及度にあるようです。

確か一番上の孫は、紙おムツでなく、布で作った昔ながらのおムツで育ったようです。二番目の孫のころから紙おムツが使われ始め、三番目となると、テレビのコマーシャルでお分かりのように、吸収力もすぐれ、赤ちゃんのお尻はいつも気持ちよく過ごせる、たいへん便利な紙おムツが登場してきました。

科学の進歩が人間の暮らしを便利にしていることは分るのですが、一方では、人間の自立を妨げているような気がしてなりません。

平成8年6月

 

角川春樹の麻薬事件が大きな反響を呼んだ。彼を狂わせたものは、出版に映画に、次々と成功し過ぎて、自分の能力に溺れたからではなかろうか。

霊能者宜保愛子も、最近では週刊誌でだいぶん叩かれている。彼女も売れっ子になり過ぎて「生き霊を飛ばして苦しめてやる。」などの暴言を吐く、傍若無人のふるまいをするようになったからである。

今、中野浩次の「清貧の思想」がベストセラーとなって、今年の三月三日現在三十四刷にまで達し、続いて八月には、第二弾の「清貧の生きかた」を世に出した。彼には、角川春樹や宜保愛子の二の舞をさせたくない。

有名になり過ぎるというのは怖いものだ。私は無名でよかった。

平成5年12月

私とEさんの出会いは、白島小学校で同学年になったときである。ともに山好きで、奥さんの御父上と私と父が昵懇であったことから、すぐに意気投合し、よく山の話をした。けれども、一緒に山へ登ることが一度もなかったのだから不思議である。

それは、同じ山好きでも、彼は家族の心配もよそに冬の大山へ単独で登るような求道的な面があり、私はあちらこちらと方々の山を歩いて自然と親しむ、さすらい人のような面があって、山に求めているものが少し違っていたからかもしれない。

吹雪との格闘に備えて、普段からピッケルの柄に亜麻仁油をぬっておくとか、アイゼンは八本ヅメでないとアイスバーンの上を歩くとき危険であるとか、冬山のきびしさについて語る彼の顔に、その芯の強さがうかがえた。処女出版になった、詩集「せみのたんじょう」の中で次のように山へ呼びかけている。

山よ登山靴
おまえたちは
変わることのない
性格と心を持っている。

ところが、その彼にある重大事が持ち上がったのである。というのは、彼の登山靴が度重なる酷使で傷んで、もう長く履けそうになくなってきたのである。

 (続く)

夏山なら布製のキャラバンシューズでも間に合うが、冬山では皮の登山靴は絶対欠かすことのできない装備だ。

困った彼は、私の持っていた、登山靴の老舗吉田屋製の自慢の靴に目を着け、「あんたはええ靴持っとるのう。山へ登れんようになったら、わしが履いたるけ譲れ」と迫ってきた。そこで私も負けずに「いや、この靴はあんたには絶対に譲れん。もし、あんたが冬山で遭難したら、わしが一番に捜索に駆けつけにぁならんでのおう。その時履く靴がないと困るけえ譲れんわい。」と拒んだ。

この「譲れ」「譲らぬ」の応酬は、お互いに勤務校が変わっても、国語の会合で飲むたびに執拗に繰り返された。そしてお互いの山登りは、多忙や老化も加わっていつしか途絶えがちとなった。しかし、彼は、二番目の詩集「水の中の虹」では 「山が呼んでいる」と題して八編の山の詩を載せ、相変わらず山への情熱を燃やし続けていた。

そして、共に還暦を迎えた今年、Eさんから三冊目の詩集が届けられた。

「水辺の祈り」である。

それには山の詩は一編も載せられてはいないが、彼がかつて対峙した穂高の岩峰や、氷雪の大山頂上の詩に、はるかに勝る気迫を感じることができた。私も同じ被爆者の一人である。彼の詩の一言一句が全て胸に響き、それは同時に私の願いでもあった。八月六日の状況がまざまざと頭に浮かび、感動の涙があふれた。

そこで、私は感謝の気持ちを表わし、彼の還暦を祝って、とうとう彼が欲しがっていた私の登山靴を贈ることに決めたのである。

 

過日、御子息のJ君を通して渡してもらったところ、足の大きさもちょうど合ったようで、私もうれしかった。この山靴から今後も第四、第五・・・と詩集が生まれるであろう。

ところで、この私の拙文をお読みいただいた方は、私が彼に登山靴を贈った本当のねらいが何か、もうお分かりいただけたであろうか。

 

2008年9月: 月別アーカイブ

ウェブページ

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうち随筆カテゴリに属しているものが含まれています。

前のカテゴリは寸筆(300字随筆)です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。